3.世界のコスメ帝王、エスティローダーグループ

1946年、ブランド「エスティローダー」は一人の女性の手によって、ニューヨークで生まれました。その女性の名前がエスティローダー(Mrs. Estee Lauder)です。エスティの歩みは、ブランドの歴史そのもので、彼女が化粧品に興味を抱くきっかけとなったのは、皮膚科学の専門家である伯父の存在でした。彼が自ら開発したクリームの営業・販売をエスティが担当することになりました。エスティの的確なアドバイスと高品質が評価され、多くの顧客を獲得し美容業界に旋風を巻き起こしました。これが「エスティローダー」ブランドの誕生の話です。
彼女は自らの美容哲学をこう語ります。「美しい女性は肉体的にも精神的にも健康でなくてはなりません。健康であるからこそ自然でつややかな肌が約束されます」彼女は女性の美しさは外面だけでなく内面からもつくられることを説き続け、彼女が次々と世に送り出した製品は多くの女性を魅了してきました。
 
「エスティローダー」が発売された当時、市場のリーダーは1932年に発売されたレブロン化粧品でした。エスティの挑戦は「レブロン」の牙城に食い込むことで、日夜、美容院、ネイルサロンに自ら出かけてゆき、お客様に開発したスキンケア製品を試用してもらいました。推奨した製品はクレンジングオイル、クリームパック、スーパーリッチオールパーパスクリーム、スキンローションなどでした。それらのサンプルを購入しないお客さまにも無料で大量に配布しました。このサンプリングの成功がエスティローダーの市場導入を可能にさせたのです。その後、エスティの長男レナルドローダーが後を継ぎ次々と時代に沿った新たな化粧品を自社開発し買収しながら成功を修め、現在では世界の80数か国までにビジネスを拡大されています。

1. 現在の化粧品市場
(1) 世界の化粧品市場
女性用化粧品は、ビューティ&パーソナルケアに分類され、その他の製品としては、ボディケア、ヘアケア、サンケア、男性用化粧品などが含まれます。
ビューティ&パーソナルケアの最大市場はアメリカで11兆円、2位の中国が7兆円、そして3位が日本で5兆円です。日本では女性化粧品が全体の35%を占め1.6兆円の市場サイズで、その内訳の構成比をみると、スキンケアが67%, メークアップが30%, そしてフラグランスが3%となります。この構成比は地域や国によって異なり、ヨーロッパではフラグランスが高く49%、スキンケアが30%, メークアップが21%です。アメリカ市場では3つが均等で、アジアは日本市場と同様に全般的にスキンケアが高い傾向にあります。ちなみに、中国ではスキンケアが79%と最高のシェアとなっています。
高級化粧品は創業者の名前がブランドになっており、「レブロン」「ヘレナルビンスタイン」そして「エスティローダー」が有名ですが、現在も創業者のファミリーが経営に参与しているのは「エスティローダー」だけです。
 
(2)日本国内の化粧品市場
日本国内は価格帯によって高・中・低の3つグループに大別されます。高価格帯の化粧品はいわゆるプレステージ化粧品(高級化粧品)と呼ばれ主に百貨店で販売されています。流通チャネル別シェアをみると、ドラッグストアが1位で30.4%、2位がインターネットで15.9%、3位が百貨店で15.2%、4位がスーパーで12.4%、残りの26.1%が通信販売を含めてその他となっています。(資生堂調べによる)
 
百貨店ビジネスは近年の景気低迷と消費者行動の変化によって小売業としての地盤が低下していますが、化粧品は食品と共に堅調な売上をあげて健闘しています。正確な調査データーはありませんが、化粧品の百貨店内のシェアは6~7%、食品が25%と推定されます。
 
百貨店で扱うプレステージ化粧品は4つのグループが中心となりブランド数は60程になります。ブランド間の競争が厳しく、店内のロケーションとスペースの獲得争いが激化しています。
4つのグループとは、フランスのシャネル・ディオールなどを中心とするオートクチュールブランド、トイレタリーズなども含めた幅広いファッション・ビューティを提供するロレアールグループ、エスティローダー・アラミス・クリニーク・ボビーブラウン・MAC・ドゥ・ラ・メール・オリジンズなど多くのブランドを有し本社をアメリカに置くエスティローダーグループ、そして最後のグループが資生堂、アルビオン、コーセーなどの国産ブランドです。
 
4つのグループの中で、オートクチュールブランドとエスティローダーグループはプレステージラインだけに特化しており、百貨店流通に限定したチャネル政策をとっています。
 
(3) エスティローダー・グループ・ジャパンについて
エスティローダー・ジャパンが米国エスティローダーの日本支社として1967年に設立され、その後、業務の拡大発展に伴い1976年3月、日本法人エスティローダー株式会社に改められました。
「エスティローダー」ブランドは日本進出以来、全国一流百貨店、高級品専門店に於いて限定販売され、高級輸入化粧品としての地位を確立してきました。男性総合化粧品「アラミス」は1970年より、エスティローダーの男性版として日本での販売を開始し、その個性的な香りとスキンケア製品は、近年の男性化粧品ブームを作る基となっています。
 
1978年には皮膚医学の成果に基づき、全製品無香料・アレルギーテスト済みの総合化粧品「クリニーク」ブランドを発売し日本市場で圧倒的な支持を得ました。徹底したブランド戦略を展開したので「クリニーク」はエスティローダーから発売になったとは誰も気がつきませんでした。1995年には、植物療法を取り入れた自然派化粧品「オリジンズ」ブランドの販売を開始しました。パッケージは再生紙で作られ環境保全に充分な配慮がなされています。そして1998年2月、数々のスーパーモデルやコレクションのメークアップを手がけ、メークアップアーティストのトップを走り続けていたボビイブラウンからメイクアップブランド「ボビイブラウン」を買収し、続いて、1998年4月にはフランクトスカンとフランクアンジェロの二人の手によってスタートしたメークアップアーティスト向けに開発されたメイクアップ・アート・コスメティックス(M・A・C)ブランドを買収し販売を開始しました。「M・A・C」は設立当初からエイズ関連基金への募金活動や地域社会へ積極的に貢献をしています。
2008年8月には航空宇宙物理学者マックス ヒューバー博士開発のミラクルクリーム「クリーム ドゥ・ラ・メール」を中心とする スーパープレミアムスキンケアブランド「ドゥ・ラ・メール」、2003年9月には、ヘアケアプロダクトを中心とする「アヴェダ」ブランドによる独立店舗「アヴェダ ライフスタイル サロン& スパ」の展開を開始し、2008年9月には、香りをテーマに豊かなライフスタイルを提案する英国のラグジュアリーブランド「ジョー マローン」の販売を開始しました。
日本では「エスティローダー」でビジネスをスタートして以来50年がたち、その間、ブランド数が現在では10ブランドになり、同時に社員数は、1800人を越え、売上は幾何級数的に成長しました。エスティローダー・グループの社是は「触れ合う人々に最高のものを」をモットーに高級化粧品ブランドとして確固たる地位を築きあげています。
 
1 ブランド「エスティローダー」
「エスティローダー」ブランドの導入当初は高価格、高級化粧品として話題になったが、ビジネスとしては苦戦が続きました。「エスティローダー」に続いて発売された「アラミス」も石原裕次郎が愛用したブランドとして話題になりましたが、ビジネス的には困難な状況でした。現実問題として百貨店流通だけで利益を上げることは難しく、輸入化粧品の市場規模が大きくならないかぎりブランドの成長は難しい状態でした。百貨店の売り場も階上の「特選品コーナー」に輸入品として細々と販売しているのみでした。
 
その百貨店流通で革命が起きました。1978年にエスティローダーグループから市場導入された「クリニーク」ブランドが百貨店ビジネスを一変させたのでした。「クリニーク」は百貨店内のロケーション、スペース、カウンターデザイン、広告プロモーション、カウンセリング方法、販売員のユニフォームについてまで「クリニーク」独自の条件を百貨店に強制し店頭では「クリニーク コンピューター」と呼ばれるツール(皮膚科で行う問診表を参考にした質問内容)で肌診断を行い、顧客の肌に適したサンプルを無料で配布しリピートしたときに販売をする戦略をとりました。この販売手法は今までなかった画期的な手法で大きな話題となり「クリニーク」を成功に導きました。その結果、苦境に面していた百貨店自体を救うほどの貢献を見せ、化粧品の売り場も階上から1Fのメインへと移動になりました。当時の「クリニーク」を、平家物語ではありませんが「クリニークにあらずものは化粧品ではない」と平然とささやかれているほどの勢いでした。
 
エスティローダーグループの経営戦略は事業部制を厳しく採用しているので、「クリニーク」の成功の恩恵が「エスティローダー」や「アラミス」に及ぼされることはありませんでした。妹である「クリニーク」の存在感が巨大となり姉の「エスティローダー」の撤退がささやかれていたほどでした。
 
2 ブランド「エスティローダー」の再生計画
私が「エスティローダー」に入社した1983年は、「クリニーク」が発売されてから5年目で、「クリニーク」は依然と絶好調で飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
アメリカ本社から提示されたブランド「エスティローダー」再生計画は、既存の高額スキンケアラインを一掃して新たなラインを手頃な価格で新発売することでした。そのラインは「スイス・エイジング・コントロールシステム(SACS)」と呼ばれ、パッケージも上品なブルーカラーに統一され、小売価格(上代価格)も手頃な競合価格に設定され、2種類のプロモーショナルセット(オイル肌用とドライ肌用)が新販売されました。しかしながら、ブランドの知名率も低く、積極的に広告する予算がなかったので、せっかく導入したセット販売も芳しくなく店頭在庫を圧迫していました。
「エスティローダー」に転職して最初に受けた本社からの指示は「上記2セットの在庫を店頭から一掃せよ。その資金として10%の販促費を本社から供与する」でした。問題があるからこそ、本社は私を採用したのです。問題が無ければ新規採用の理由がありません。なんとしても在庫一掃しなければなりません。当時のエスティローダーにとって在庫過多は致命的問題となっていました。再生計画への挑戦が転職して一週間目から始まりました。
 
まずブランド再生のための総合計画を着手しなければなりませんでした。現状分析をして問題点・機会を抽出し、新たな基本戦略、製品戦略、価格戦略、流通戦略、プロモーション戦略の再構築です。
ブランド自体の基本的な問題は、ブランド知名率が低くブランドイメージが古いことでした。この問題解決の為の諸政策を実施していきましたが、何よりも重要視したのが、売り場の美容部員やオフィスのマーケティングスタッフのレベルアップをはかることでした。関係者全員が余事を排して「クリニークを越えろ」に集中することでした。「禍を転じて福となす」ことの実践です。効果は徐々に表われビジネスは継続的に右肩上がりに成長し、20年後には売上面で6倍、利益面では25倍までに成長しました。マーケットシェアは化粧品専業ブランド市場では10位前後からベスト3以内、プレステージ度では業界で最も高い化粧品ブランドになりました。高級アパレル業界の皆さんからは「エスティローダーを取り扱わない百貨店とは取引はしない!」と言われるまでになりました。
 
ブランド成功への20年間の軌跡にはブランド関係者並びに百貨店の皆さんの理解と協力がなければ成し得ないことでした。特に、社内的には共に仕事をした谷洋二営業本部長との二人三脚がなければ不可能だったでしょう。ブランドの成功の秘訣は何かと問われれば、下記の「マーケティング思考に立脚した仕事の進め方」に集約されます。
 
➢ 相手の立場に立って考え、そして行動すること。
➢ 小さな、小さな心くばりを大切にすること。
➢ 現場のビューティアドバイザーに感謝の気持ちを形に表すこと。
 
2007年までの20年間、常務取締役事業部長としてブランド「エスティローダー」を担当し、2008年に後継者にバトンタッチの指示があり、その後の4年間は副社長としてグループ全体のチャネル戦略、アラミス事業部長、オリジンズ事業部長を担当しました。
 
エスティローダーグループを辞して10年以上経ち、四半世紀にわたるコスメ人生の思いが走馬灯のように浮かんでくるようになり、外部から百貨店カウンターを見る機会が増えてしばらく立ち止まり遠くから見ていると、カウンター作りに関わり合った仲間たちが目の前に浮かんでくるようになりました。それを契機に本書を草稿することを考えつき約半年掛けて2017年に完結させました。
10年も立つと顔見知りの美容部員(ビューティアドバイザー)も少なくなってきましたが、カウンターのロケーションは依然として、ほぼ半分の百貨店ではベストの場所を確保しているのを見て胸をなでおろしています。それというのも、カウンターは全社員の努力が結晶化したもの、つまりカウンターのロケーションとスペースはブランド力が反映されたものだからです。ブランド力とはリテールセールスの大きさで、カウンターのロケーションとスペースは現場の仕事の成果が具現化されたそのものなのです。百貨店に対する交渉力の強弱は現場の皆さんの売上に依存しています。ビューティアドバイザーの協力が無ければ百貨店の化粧品ビジネスは成り立たないと言っても過言ではありません。

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