31. 性善説と性悪説、どちらがよいか

「性善説」と「性悪説」は古代中国で生まれた哲学ですが、マネジメント(経営)では異なった解釈で使われています。
本来の「性善説」とは、人間とは生来、善をもって生まれている。その善を施していると開花し尊敬される人間になれるという考え方です。
それに対して「性悪説」とは人間は元来弱い存在として生まれる。人間は環境の変化によって左右されるので、人間としての最低規範を学べば尊敬される人間になれるという考えかたです。いずれにしても、両説はどのようにすれば「尊敬される人間」になるかを説いています。

経営で取り上げられる両説は少し解釈が異なります。「性善説」は、人間は元来勤勉で自ら行動する善玉を持って生まれてきているが、環境事情によって善玉が曇ってしまっている。従って、曇りを取り除いてあげれば、人間は生まれた本来の姿になり自発的に精進するはずです。つまり管理職の仕事は部下にやる気を起こさせることで、部下の動機付けが経営管理の重要な要素の一つだとしています。
一方、「性悪説」では人間は悪玉を持って生まれてきている。その性根はなにをしても改心することはない。従って、仕事をさせるには強制し減点主義で管理しなければならないと考えます。部下は何も考えずに、上司の言うこと、命令指示することに従っていればよいという考えです。

「働く者は食うべからず」という言葉がありますが、これはソ連社会主義のスローガンでした。社会主義は国民全員が精力的に勤勉に働くことによって経済が成り立つので、働かない人間には食べ物を与える必要がありません。全員が当事者意識を持って勤勉ならば良いのですが現実はそうではありません。誰もが、それぞれ考え方が異なり、楽をして得しようとする人間が多くいます。これは目算外れです。つまり社会主義が成立するには性善説の存在が圧倒的な前提条件です。

性善説では「自由裁量の権利」が与えられますが、性悪説には「強制管理・拘束に従う義務」が伴います。どちらの考え方が良いかと言えば、個人的には性善説がよいと思いますが、その為には、自発的に学び、新しいことに挑戦する気持ちを忘れずに、常に前向きに考えて行動しなければなりません。経営の基本姿勢は性善説であるべきですが、性悪説になるかどうかは社員の姿勢によって決まります。

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