43.人生の転機には人があり

1968年にライオン歯磨(株)に入社し、即座に米国ブリストル・マイヤーズ社との合弁会社に出向になり財務諸表の作成の手伝いをしていました。
1971年になると米国からA.H.ヨシザワ氏が合弁会社の専務として赴任されアシスタントを任じられました。初めて名刺にタイトルが付され、それは「アドミニストラティブ・アシスタント」というものでした。
仕事は秘書と同じでしたが、長いタイトルでなにか嬉しく感じたのを記憶しています。

翌年、シンガポールでブリストル・マイヤーズ社主催のセールスマネージャー・セミナーが開催されるというので、ヨシザワ専務の推挙もあり、先輩と2人で出席させてもらいました。東南アジア諸国のセールスマネージャーが40人ほど出席する一週間のセミナーでしたが、すべてが初めて尽くしの出来事でした。出張するのは初めて、飛行機に乗るのも初めて、ましてや海外へ行くのも初めてでした。
セミナーの合間を見て夜の街に出かけると、必ず声がかかります。その卑猥な言葉に大変驚きました。当時、日本からの観光客は、農協団体と言われ典型的な日本人の姿が漫画に書かれていました。それは皮肉でしょうが、黒めがねを掛け首にはカメラをぶら下げ背が低いのが日本人で、いつも女性の尻を追いかけている姿でした。当時の日本人はこれが観光の目的だったようです。「旅の恥は掻き捨てとばかし」に夜の街をさまよい歩いているのを見かけました。
上司であるヨシザワ専務に日本人について聞いてみると、「日本人のイメージはよくない。そのような場所でお金を使うなら、ホテルのドアマンにチップをはずんだらどうですか、きっと次にやってくる日本人に親切にしてくれるはずだ。君はまだ若いのだから、将来の日本のことを考えなくてはね」そんな言葉をいただきました。

帰国の機中で人生の転機になることにトライしてみようと決意をしました。「インターナショナルな人間になりたい。日本人としては一個人だが、なんとかアジアの国々と良好な関係を築くために貢献したい」そんな気持ちで羽田に降り立ちました。
当時、会社には海外留学制度があり社内試験で選抜されると米国で修士号(マスター)をとることができました。早速、応募し運よく選ばれ留学させてもらいましたが、これもヨシザワ専務のサポートがあったことを後で知らされました。ヨシザワ専務にお会いしたことが私の人生の転機になりました。

0コメント

  • 1000 / 1000